言葉遊び

言葉遊びは好ましい。


僕には悪い癖があって、言葉遊びを会話の中でし
ょっちゅう使ってしまう。しかもわかり難い類の
ものを。意図的に言葉の意味を取り違えたりもす
る。そうするとしばしばディスコミュニケーショ
ンが起こる。

では、なぜそうなるにもかかわらず僕は言葉遊び
が好きなのか。ちょっと考えてみた。

まず、前提として僕は「言葉は完全ではない、曖
昧なものだ」という認識がある。理由は「誤解」
の日記で書いたようなこと。「その曖昧さ」で遊
ぶ(?)するのが好きなのだ。

こないだよくある話・THE・パラドックスを見つけて
読んでいた。砂山のパラドックスというものがわ
かりやすくてこれいいなと。言葉の曖昧さによる
言葉遊び。
パラドックスというわかり難い言葉を使うのは好
みではないが、日本語の訳を探すと「逆説」とな
るようで。

【砂山のパラドックス
まず、前提として、「砂山は膨大な数の砂粒から
できている」
ああ、そうだよね。僕もそう思う。

それでどうした?とこれ
「砂山から一粒の砂を取り除いても、それは依然と
して砂山のままである」

おお。なるほどね。確かにそうさ。何回になるか
は知らないが、繰り返し繰り返し砂をのけていっ
ても何粒目を取り除いた段階でそれが砂山でなく
なるかなんて言葉では説明できないよね。という
パラドックス


なんでこんなこと起こるのかしらん?というと、
これつまりは「砂山」という言葉の曖昧性からお
こる。要は「砂山」という言葉は明確な定義がな
いということが原因。さあ、面白くなってきた。


ちなみに、このパラドックスから脱出する方法は、
二つある自明の前提のどちらかを否定する。

「砂山は膨大な数の砂粒からできている」
「砂山から一粒の砂を取り除いても、それは依然
として砂山のままである」

例えば、「膨大な数の砂粒からできているものが
砂山ではない」としたり、「砂山から砂粒を取り
除いていき、最後の一粒になってもそれは砂山で
ある」とするしかないのだということらしい。


さて、このようなパラドックスは世の中に腐るほ
どある。例えば、砂山と同じようなことを挙げる
と、「背の高い人」の定義。身長が2メートルある
人はそりゃ背が高い。しかし、その人から身長を1
センチづつ取っていったらどの段階でその人は「背
の高い人」じゃなくなるの?というもの。これも説
明できない。「背の高い人」という言葉が曖昧だか
ら。デジタル。


さて、なんでこんなことに今更ながらまた興味を持
つのかというと、僕は人をみるときにちょっとした
カテゴリ分けをする。ただし、このカテゴライズに
は時間がかかる。その人のことをある程度知らない
とできない。

それは、「デジタルな人」か「アナログな人」

これどういうことかというと、別にパソコンとかデ
ジタル物に強い人とそうでない人という訳ではない。
「思考パターンがデジタルかアナログか」という判断。
よく言われる「私はアナログな人間だからパソコンは
…」というものとはちょっと違う。

僕はおそらく「アナログな思考」を「好む」人間だと
思う。物事を判断・思考するときに方程式を用いない
(ようにしたいと思っている)。というのがわかりや
すいだろうか。これは非効率的はあるが、非常に柔軟
性があると個人的に思っている。

では、「デジタル」な思考とはどういうものか。物事
を判断・思考するときに方程式を用いる人だ。僕はこ
れはあまり得意ではないし、そもそも好きではない。
しかし、これものすごく才能の要ることだと思ってい
る。この思考にはメリットが非常に多い。判断のスピ
ードはものすごく速い。しかし、これには非常に大き
なデメリットもある。それはわかり易さと誤解が紙一
重であるということだ。デジタルな思考をするという
ことは余分な部分をカットして判断する。早いし正確
だ。しかし、カットしている分、他人に理解をしもら
ったり、その人自身があまりにも明確な方程式を持っ
ているために無意識のうちに人の考えを理解すること
が困難になる。


僕は、どんなに仲のいい友人や家族にいたっても「そ
の人の名前しか僕は知らない」と思うようにしている
。デジタルに判断したら簡単だ。あいつはああいうや
つだから。と簡単にいえてしまう。でも、それって面
白いのだろうか?というかそもそも相手に対して失礼
じゃない?とか考えてしまう。デジタルに排除するこ
とによって失われる可能性というものに僕は楽しさを
見出したいと思う。

しかし、このように書いてはいるものの消してアナロ
グの方がいいとは思っているわけではない。アナログ
にはアナログのデメリットがある。だからデジタルが
生まれた。僕も便利なデジタル思考は嫌いじゃない。
よく使う。しかし、これバランスを保てなくなった場
合、これおそろしな、と思うわけで。

僕は、人付き合いを含め、全ての物事を理解するのは
全て言葉遊びだと思っている。言葉遊びをする気がな
くなったときそのそれに対する興味が枯渇したときだ
ろうなと思う。つまりはそういうこと。デジタルでア
ナログを解したいと思う、非常に滑稽な話。そこに真
理なんかない。