最初で最後

「ごめん」


彼女は震える手を止められないままに僕の手を握り返してきた。


「わからないのよどうしてか。もうちょっとこうしてて」


鎌倉の寂れた喫茶店。中途半端なアールデコ調のレイアウト。
くすんだ壁紙。変な花瓶。シュールとしか言いようの無い、僕好
みの喫茶店で、彼女は言った。


1ヶ月振りに会った彼女は、少し痩せていた。
仕事が忙しいのだろうか、学校がきついのだろうか。そのどちら
の愚痴も彼女は言わない。ただ、ああいうことがあった。こうい
うことがあったとしきりに話す。震える手を止められないままに。

珍しくとれた三連休。
僕は金曜日の夜に夜行バスに乗り、土曜日の5時には新宿にいた。

五反田で乗り換え、彼女の家へ着くと、朝も早いのにちゃんと着
替えた彼女は駅まで迎えにきていた。

その日は一日ボーっとして過ごす予定だった。
二人で寝ぼけながら朝ごはんを作って食べた。そのまま昼間で眠
ってしまおうか。そんな雰囲気。彼女がぽつりと言った。

「鎌倉って行ったことある?」
「いや、ないよ。そんなに遠くないところに住んでたのに。そういえば一度も」
「あたしもないの。8年も住んでるのに一度も無いや。綺麗らしいよ。」
「へぇ…行ってみる?」
「これから?」
「そう。行かない?」
「いいね。それ」
「よし、なら30分後に出ようか」
「うん」


鎌倉には行ったことの無い2人。乗り継ぐ電車もわからない。イマ
ドキは携帯ですぐに調べられる。便利だ。おかげで僕は時刻表が
読めない。鉄道マニアには怒られそうだが、仕方が無い。読めない
し読める必要を感じないのだ。きっと緊急時になって困るのだろう。
それも仕方が無い。


駅でお菓子とビールを買って電車に乗った。なんだか軽い旅行のよ
うな。そんな気分。景色変わる車窓を二人で覗き、着実に電車は海
の方へ向かい、鎌倉に行こうと決めてから2時間後。僕らは鎌倉にい
た。


鎌倉について予備知識は何も無い。強いて言うならここは神奈川県
だというぐらい。海水浴の季節、人は多い。
僕らは泳ぐつもりも無いので水着も無い。無い無いづくめ。


鎌倉の町並みは、少しレトロで、いかにも観光地という感じがした。
そういうところしか歩いていなかっただけだろう。寺だか神社だか
わからない建物を巡り、観光地的道を歩く。別段特徴も無い観光地
だけど、ものすごく楽しかった。2人で出かけた初めての旅行のよう
なもの。普段はでかけることなんて出来ない僕らにとってはそれだ
けで充分だった。


茶店に入ってアイスコーヒーを2つ頼んだ。
次はどこへ行こうか。僕らは話す。
少し休んで海の方へ行ってみようか。
いや、今日は人が多いよ。
おなかもすいたね。
ちょっとあまいものでも食べようか。
煙草吸う?
いや、いい。
疲れてない?
うん。大丈夫。
ちょっとトイレ
いってらっしゃい


シュールな喫茶店のトイレはやっぱりシュールで、どうしてだろう?
引き戸で、テレビが置いてある。
変な店。


席に戻ると、彼女は少しうつむき加減。窓の外を見ている。
僕は煙草に火をつけ、煙を吸った。

ただいま。
おかえり。

彼女の手はカタカタと震えていて。
目線に気がつくと、彼女はなんでもないと言うように手をテーブルの下へ入れた。

かして。
何を?


大丈夫だから
いいよ。すぐにとまるから。いつものこと。
いいからかして。「手当て」って知ってる?
知らない。
合気道してるときに聞いたんだけどね。昔は治療するときは手をあて
てたらしい。そこからきたのが「手当て」なんだって。だから。
人の手には何かを治す力があるらしいよ。気ってやつかしらん。


彼女は手を差し出すが、その手はカタカタと小刻みに震える。彼女自身
止める術が分からないといった感じだ。僕は彼女の手を握った。
それしか出来ないが、それでいいと思っていた。根拠はないが、そう思っていた。


「ごめん」
「気にすることじゃない」
「わからないのよどうしてか。もうちょっとこうしてて。別に何か嫌だとか
そういうんじゃないの。本当に」
「もちろん」
「ありがとう。手、温かいね」
「よく言われる。心が冷たいらしいよ」
「それ当たってるかも」
「そういうときは嘘でも『そんなことないよ』って言うもんだって習わなかった?」
「ははは。そうね。『そんなことないよ』」
「遅いよ」
「いいじゃん。あのね。そういえば昨日仕事でさ…」