無駄という矛盾

(ここに書いてあることはものすごく当たり前のこと
を自分の思考はどのようになって当たり前だと思った
のかをツラツラツラと書いているだけです。言ってし
まえば、ただの作文です。ご注意ください。
「無駄」なことを「無駄に」掘り下げる「無駄を楽し
む」ための文章なのできっと意味もわかりにくいし、
すっきりしないこと受けあいです。故にここから先を
読むことは基本的にお勧めしません。僕は止めました
よ。)







無駄ってなんだろう?

とよく考える。なぜなら、僕にとって「無駄」こそが
「無駄」ではないからだ。
無駄って何だ?と辞書を繰った。


むだ【無駄】
[名・形動]
1 役に立たないこと。それをしただけのかいがない
こと。また、そのさま。
無益。「―な金を使う」「時間を―にする」
◆「無駄」は当て字。


ここで都合のいい解釈をすると、要は「無益なもの」
らしい。



無駄を嫌う人というのは非常に多いと思う。
仕事をしていると当然無駄は敵だ。無益だから。有益
じゃない「無駄」は「無駄」なのだ。それはわかる。
それもいい、否定もしない。当然だ。
僕だって無駄なことは嫌いだ。


おそらく、だけれども。そういった無駄を嫌う人は、
「時間の浪費」や「自らの血肉にならない」ことを嫌
っているのだと想像する。しかし、「僕にとって」重
要なことというのはそこじゃない。これは価値観の違
い。
あなたと僕は顔つきも声も違うように考え方だって違
うのだ。


僕にとって重要なことというのは、「テーマのない会
話」であったり「何も生まない読書」だったり「健康
的じゃない散歩」だったりする。これらは、一般的に
「無駄」だといわれるものだろうと思う。(もしかし
たら、「上記のようなものたちを楽しむ時間」と表現
したほうが正しいかもしれない。)


では、なぜにこれらが僕にとっては重要なのかという
こと。


例えば、「テーマのない会話」。これはそもそもその
存在意義から疑われる。なぜなら、会話はコミュニケ
ーションツールであるべきなのだが、テーマのない会
話というのはその時点でディスコミュニケーション
達成してしまっている。


この「存在そのものが無駄」であると思われるこの「
テーマのない会話」
だけれどもその実、これは非常に心地いいものである
と「僕は」思っている。


では、なぜに心地良いのか。
これは、至極当然のことなのだけれども、「無駄」を
楽しむためには「無駄な時間」と「無駄を愛する同志
」が必要になる。
しかし、一番大切なのは「余裕」だ。余裕があると安
心するし、心地いい。車のハンドルにあそびがあるよ
うに、満員電車には誰だってのりたくないように、「
余裕があると心地いい」ものだ。

「テーマのない会話」という無益なことを行うには、
それなりに「無益でないこと」をある程度こなしてお
かないと得ることが出来ない。
「無益でないこと」というのは「仕事」や「お金」に
言い換えられるのかもしれない。
つまり、そこには余裕がないと得られないということ
になる。
しかし、一言に「余裕」と言っても、意味はそれぞれ
に違ってくる。


お金が全然なくても「余裕」な人もいれば、トイレッ
トペーパーのストックが無くなるだけで「余裕」のな
くなる人もいる。


さて、僕にとっての「余裕」とは何かを考えた。それ
は、「無駄を無駄だとは思わないこと」ではないだろ
うか、と思った。一般的に「無駄」と言われることを
「無駄」だと思わずに行える。脳みそのどこか隙間程
度でかまわないけれども、空きスペースがないと動き
が悪くなる。パソコンと一緒。


一時期、僕は「無駄」を「無駄」だと思っていた時期
があった。
昔は違った。「無駄」を「愛して」いたのに「無駄」
を「嫌う」ようになった。


こうなってから、とても重要なものを無くしていって
いたことに気がついた。
それは、「言葉の喪失・退化」や「機知の減少」、そ
して何より悲しいのは「感性の欠落」といった形で現
れた。


別に僕が、「言葉が発達していた」とも「機知に富ん
でいた」とも「感性がすばらしかった」とも思ってい
ない。飽くまで当社比というか、自分の中で漠然と失
われていっていやしないだろうかとひどく不安になっ
た。


僕は、今まで無駄だと言われることを愛してきた。つ
まりは「余裕」があった。
しかしいつしかそれは妄想になり、現実生きていくた
めに淘汰された。僕は無駄を極力排除した。無駄を楽
しむ心だけは無くせないままに。


すると、多くの弊害が生まれた。


僕はその「自分の価値観の中で失われたもの」がある
という事実を知ってとても悲しくなった。そんなに余
裕がないってどういうことだろうか?と。


確かに、あの頃みたいには「無駄」は愛せない。何故
ならとうの昔に僕のモラトリアムは終了しているし、
何よりそればかりの生活を僕自身望んでいない。

今まで自分のバックボーンとして無意識の内に大事に
していたものたちに別れを告げ、強制的に押し込めて
きたことは、多くの喪失はあったものの、価値観へ大
きな変化も与えてくれた。


これによると、僕は、僕にとっての「無駄」とは「無
駄」であると同時に「無駄」ではないという矛盾を内
包する。
そもそも、僕は「人は自分の利益にならないことはし
ない」という歪んだ持論がある。
「無駄」は「無益なこと」なので「利益」にはなりえ
ない。
しかし、僕は無駄をなくしてはまっとうに生きていく
ことすら出来ない。
無駄を無駄と思わず、無駄な時間を楽しむことを渇望
している。かなりのモチベーションがそこにある。確
かにある。

あれ?おかしい。

こうなってくると僕は、「無益なのことは動機にはな
りえない」という歪んだ持論と「無駄」という「僕の
人生にとって」なくてはならないものを同居させなく
てはいけないという変なジレンマを抱えていることに
なる。

これは困った。

なので困った僕は考えることにした。この不完全な動
機の根源を探る旅をすすめるために。しかし、今の段
階では「よくわからない」ということがわかった。「
無知の知」とはよくいったもの。

僕の生きるためのモチベーションの根源は何か。多分
今日も明日も明後日も考え続ける。いつか来るそのと
きまでにわかったらいいかな。そんな風に今日も「無
駄」を楽しむことにしたい。