時間はココアをドロつかせる代わりにゲロをカピカピにする

今、自分が神戸にいることを思い出し、ゴールデンローファーズの
CDを引っ張り出して聴いてみた。


以前聞いていたときとは随分感覚が違う。
それはこのCDとの出会いかたに不具合とそれに伴う問題を時間が少し
づつ変えてきてくれたからだろう。


それとは別に彼らの音楽は嫌いではない。
どちらかと言えば好きな方だろう。


ゆらゆら帝国を狂ったように好んで聴き、勝手にしやがれをこよなく
愛するような人間だから仕方が無いのかもしれない。


まあ、いいけど。


時間に伴う変化は、ココアをドロドロの溶解物にもしてしまうし、ゲロ
をカピカピにだってしてしまう。


つまり、どんなことも時間が教えてくれるのだ。


僕が彼女をどれだけ好きだったか、とか、彼らとの時間がどれほど大切
だったとか、なんていうのも、時間の前ではココアやゲロと同線上に
存在している。


最近よく思い出す。


高校のときによく行っていたお婆さんが2人でやっていた美味しい定食屋
のことや、高校のときによく行っていたお婆さんがやっているボロボロの
ビリヤード場。そしてそこにあったビンのコーラを扱う自販機。
共に今は無い。
定食屋はこじゃれたショップになり、ビリヤード場はマンションになった。
その事実すらつい最近まですっかり忘れていた。


あのコーラを引っこ抜く感覚で僕は色々な事を忘れていく。
そして色々な事を思い出していく。


全ては時間と共に生きる以上どうしようも無いことなのだと思う。


それでもどうにかしたいと思ってしまうのは、僕が勘違いをしているので
あり、その勘違いを時間は相手にしないからなのだと感じる。


時間に相手にされなくなったらどうなるのだろう。
究極の客観と同じように気になることです。